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9

 それは、醒(さ)めるような月明かりの夜だった。
 その空間は浅い呼吸でも思わず噎(む)せ返(かえ)すようなこもった空気で酷い有様だったが、室内の充満しきった埃(ほこり)に月光(げっこう)
が反射する様子は神秘的なものであり、この時ばかりは悪い気はしなかった。
 そう、そこは淡い光をも眩しいと感じられるくらいの闇の中だった。
 少年は鉄格子越しに見た久方ぶりの灯りに思わず瞳を僅(わず)かに細めた。
 
 ――少年は、【商品】だった。
 
 ここはある闇市を生業としているマフィアが管理する倉庫であり、更に少年はそこにある複数の檻の一つに押し込められていた。
 一体いつからそこに居たのか、少年は知る術を持たない。
 最初のうちは倉庫の上方に申し訳程度に設置された窓から指す太陽の光の回数で日数を数えていたが、それがなんの意味を持つとかとふと疑問を持ち、以降数えることはしていない。
 こんな埃まみれの倉庫だ。もちろん掃除など行き届いてはおらず、おびただしい排泄物(はいせつぶつ)やその他色々な要因で吐き気すら催(もよお)す異臭に包まれているが、少年はもう慣れきってしまった。
 ふと、少年の耳に嗚咽(おえつ)をこらえすすり泣く小さな声が聞こえてくる。
 この倉庫には少年の他に数十人の同じような年頃の子供が、ある時は放り込まれ、ある時は引きずられて姿を消す。
 なんと言っているのかわからない悲痛に満ちた叫びを、もう何十回、何百回と聞いた。
 倉庫を管理するマフィアの構成員らしき大人も、ここへは最低限しか足を踏み入れない様だった。頻繁(ひんぱん)に出入りして不審がられては商売にならない。その辺の警戒は徹底しているようだ。必然的に残飯のような食事も1日に一回という少なさだ。
 結果、少年はその歳にしてはかなり病的にやせ細っており、正直(しょうじき)鉄格子の間からするりと抜け出せるのではないだろうか、と考えたほどだ。
 ……まぁ、ここを出たところで行く宛もないのだが。
 比較的新しい記憶を思い出す。それはお世辞(せじ)にも裕福とはいえない木造家屋でのささやかな暮らしだ。その頃の自分は、よく笑っていたように思う。
 こんな最低な状況に置かれてしまった今では、感情や表情は廃(すた)れ、その幼い顔からはなんの感情も読み取ることは出来ない。
 「――……い、おい、なぁおいってば!」
 「……?」
 どうやら自分に呼びかけていたらしい。ぼうっとして働かない頭をどうにか動かし、声がした方向へ視線を向ける。
 すると、そこには同じくらいの年頃の黒髪黒瞳の少年が、鉄格子越しにこちらを見ていた。
 「やっぱり。お前、おれの言葉分かるだろ?」
 そう言えば、ここへ来てから言葉の意味がわかる問いかけは初めてだった。多くの土地から種族問わず攫(さら)われてきた子供たちが集結する倉庫では、終始意味のわからない言語で溢れかえっている。
 活発そうな向かいの少年の問いかけに、少年は素直に頷いた。言葉を発しようとしたが、乾いた空気が吐き出されるだけだったからだ。
 それでも自分の問いに応えがあったことに素直に喜ぶ少年は、場違いにも近い次なる問いかけを投げた。
 「なぁ、おまえの名前、なんて言うんだ?」
 彼の問いかけに、さきほど同様掠(かす)れた声しか発することが出来ず、結果少年は応えることが出来ない。
 その事を【拒否】と受け取ったのか、少年は口に手を当てうんうん唸(うな)ると、代替案(だいたいあん)を提案した。
 「じゃあお前は【一〇五三】らしいから五三な!おれは【一〇九七】だから九七でどうだ?…ってこんな数字呼び嫌だよな……」
 【一〇五三】【一〇九七】の番号は少年たちのちょうど鎖骨の下あたりに押された焼印の数字だ。少年たちは連れてこられてすぐにこれを押され、以降は数字で管理される。
 家畜のように数字で呼ばれることには多少なりとも抵抗はあったが、しかし名乗る機会を失った以上これが適切だと判断した少年は、こくりと頷く。
 代替案が受け入れられたことが嬉しかったのか、少年―もとい九七は、この場に似合わないほどの笑顔でこう言った。
 「じゃあよろしくな、五三!」
********
 九七の少年とのやり取りは、この閉鎖(へいさ)した空間で過ごす五三にとってとても有意義なものだった。鉄格子が邪魔をして触れ合って遊ぶことは出来ないが、声だけは鉄格子を飛び越えて相手に届けることが出来る。
 「え?!五三は学校に行ったことがあるのか!?」
 九七の噛みつきそうな剣幕にたじろぎながらも五三は「うん」と短く返答する。
 「まじか〜、五三の家はお金持ちだったんだな……」
 「そうじゃないよ。僕は兄弟がいなかったし、無理して行かせてもらってた」
 他愛(たあい)もない会話を始めてから数日。毎日のように話しかけてくる九七のおかげか喉が喋ることを思い出し、ようやく会話の応酬ができるようになっていた。
 あまり表情が動かないせいか対応にも淡白になってしまうが、九七は気にしていないようだ。
 「うちは下に二人いたからな〜。あと貧乏だったし。毎日実家の手伝いで畑仕事してたな〜」
 元々五三と九七が住んでいた地域ではあまり産業的にも技術的にも進んでおらず、そのせいで教育を受けられた子供たちも裕福層の極わずかな子供たちだけだった。殆どの子供たちは九七のように家の手伝いをさせられる。
 懐かしい、と五三は九七の言葉で昔の記憶へと回帰(かいき)されられた。
 「な、五三はここを出ることが出来たら何がしたい?」
 記憶を辿っているうちに既に議題が変わっていたらしい。そう問われた五三は、しかし咄嗟(とっさ)に答えることは出来なかった。
 ここを出る――そんなことを考えたことがなかったからだ。
 ここを出る時は無理矢理に大人に連れ出され、大衆の面前で競(せ)りにかけられ、その先で生涯を終えるのだろう。それが良いものになるのか悪いものになるのかは、考えたくもないが。
 「……九七は、何がしたいの?」
 五三は自分の答えをいう前に、そっくりそのまま97へ問いかける。
 純粋に、彼の答えが聞いてみたかった。
 「おれ?おれはやっぱり、色んなところに行って、色んなものを見てみたいなぁ」
 「色んなもの……?」
 五三の疑問に、九七は「おうよ!」と自信げに頷く。
 「いろんな景色を見て、色んなものに触れて、いろんな人と話してみたい。そして、おれ自身が何をしたいのかって答えを探したい」
 輝かしい未来を夢想(むそう)して、九七はその瞳を輝かせる。五三はそんな九七を眩しそうに見ていた。
 ここを無傷で出ることなんて絶望的ななのに、彼はその絶望をも跳ね返そうと未来を想像する。
 ――彼は、なんて強いのだろう。 それに比べて自分には、やりたいことなんてものはさっぱり思いつかない。
 五三はその太陽のような眩しすぎる光から、後ろめたさを隠すように目をそらした。
********
 「――✕✕✕!✕✕✕」
 その時は、来るべくしてやってきた。――とうとう自分が連れ出される時が来たのだ。
 連日の栄養不足のせいでふらつく五三を、背広を盛大に着崩した男が何事か喋りながら無理矢理に引っ張り出す。
 ひひひ、と卑下(ひげ)た笑みを浮かべる男は、立つことすらままならない五三の細首に首輪を付けると、繋いだ鎖を引っ張りながら倉庫を退出する。
 首輪のせいで絞まる首を無理矢理後ろに回すと、九七が居た鉄格子にも背広の男が立っており、丁度九七を引きずり出しているところだった。
 どうやら自分たちふたりを売り出すことで、まとまった金を手に入れる算段のようだ。
 背後の倉庫から騒音が聞こえてくる。どうやら九七が抵抗しているようだ。彼の言う「ここを出ることが出来たら」というたとえ話を叶えるためにはこの局面で脱走するしか無い。
 ぼんやりとそう思っていると、不審がった男によって鎖を引かれ、無理矢理前を向かされる。彼の足掻(あが)きの結果を知ることは出来なかった。
正面を向くと、丁度倉庫の出口の敷居をまたぐところだった。
 ――五三にとって、それは久方ぶりの【外の世界】だった。
 陽の傾き具合からして夕刻だろう。そこかしこで上がる蒸気。天を衝(つ)くかのような建物群。鬱蒼(うっそう)としげる見たことのない樹木。どうにか元いた場所の面影を探しだそうとしたが、そこは五三にとって完全な異世界だった。
 鎖を持つ男は他の住民に見られないよう足早に倉庫の前に停められた黒い箱のようなものに五三と一緒に乗り込むと、規則正しい振動とともにそれは走り出した。
 窓らしきガラスはスモークがかかっており、外の景色を見ることは出来ない。
 暫くお世辞にも乗り心地がよいとは思えない運転が続いたが、前触れもなく失速すると、遂には停車した。
 どうやら目的地に到着したようだ。
 五三は再び男に引きずられるようにして降ろされると、目の前にそびえる建物の内部へと連れ込まれた。
 ふと背後の景色を眺めると既に陽は沈んでおり、かわりに建物の生活光で溢れかえっている。
 それは、かつて見た埃が月光に当てられ煌(きら)めいていた光景を彷彿されるような、そんな光景だった。
 と、ここまで考えたところで重々しい音を立てながら外界と内部を完全に隔てるように木製の扉が閉められ、五三はさらに布で仕切られた向こう側へと連れ込まれた。
 そこは、様々な歓声や罵声(ばせい)、怒声が飛び交う混沌とした空間だ。
 男は手に持っていた鎖をそこで待っていた別の男へと手渡す。その男は素顔を隠すためだろうか、恰好は連れてきた男と同じ背広姿だが、顔半分は仮面に覆い隠されていた。
 二人は何事か短く話し込むと、仮面の男はそのままに、先程五三を連れてきた男はさっさとその場を後にしてしまった。
 丁度その男と入れ違いに、もう1人別の背広の男が入ってくる。その脇には顔を歪(ゆが)めた九七の姿もあった。どうやら逃走には失敗してしまったらしい。
 さきほど同様に仮面の男と背広姿の男は短く会話を交わすと、露骨に嫌な顔をして背広姿の男は九七の首輪に繋がっている鎖を仮面の男に押し付ける。
 仮面の男の堅苦しさに癖癖(へきへき)しながら軽く手を振りながら九七を連れてきた男が去っていくと、その場には仮面の男と九七、そして五三しか居なくなった。
 「だ、大丈夫……?」
 「……なぁ、今なら二人で逃げられるんじゃないか?」
 苦しげに脇腹(わきばら)を抑える九七を気遣(きづか)って五三は声をかけるが、その言葉を跳ね除け提案する九七は、まだ逃げ出すことを諦めていないようだ。確かに今この場に敵は仮面の男ただ一人だ。二人でなら逃げ出すことも出来るかもしれない。
 五三が頷こうとした時、先読みする形で仮面の男は割って入ってくる。
 「その意気や良し。しかしあまり抵抗するようなら対処せねばなりません。……その結果は双方にとってなんのメリットも生まないと思いますよ」
 いつの間にか手に握っていた回転式拳銃を見せびらかすように持ち上げた仮面の男は、「それ以上下手な真似をしたら即射殺する」と言外に告げていた。
 五三は反射的に身を固くし、九七は「……くっ」と歯噛(はが)みしただけするとそれ以上は動かなくなった。ここで死んでしまっては元も子もないと判断したためだろう。
 ふと、ここで五三は小さな違和感を感じたが、その正体にたどり着く前にその違和感は霧散してしまった。
 仮面の男は小さく息を吐き出すと、ポケットから懐中時計を取り出し、時間を確認した。
 「……さぁ時間です。この先は天国かはたまた地獄か、短い余生ですが、せいぜい楽しんでお過ごしなさい」
 二人分の鎖を持った仮面の男は、目の前の布を捲り壇上へと繰り出した。抵抗する術を持たない五三と九七も、結果的に乱舞(らんぶ)する光の中へと身を踊らせた。
 二人が壇上へ姿を現すと、元から騒がしかった会場がさらに沸き立つ。聴力が低下しているにも関わらず、両手で耳を塞ぎたくなるほどだ。
 カンカンカン、と硬いもの同士が打ち合わされる音が空間に響き渡った。
 槌(つち)をもった男は大仰に腕を広げると、堂々と何かを大衆へ向けて呼びかけている。
 舞台の脇の司会台に立つ男が言い終えると、会場に集まる大衆の気分は最骨頂を迎えたのだろう、嵐のような歓声が沸き上がる。
 進行役の男がなおも演説を続ける中、ふとその先を飲み込み押し黙る。どうしたのだろうかと彼の視線の先を五三も見てみると、そこには静かに、それでいて客席の誰よりも存在感を纏(まと)った一人の男が長い足を窮屈(きゅうくつ)そうに組みながら手を挙げていた。
 
 この瞬間、たしかにその男は壇上にいる五三と九七よりも注目を集めていた。
 
 異国の言葉の応酬は、五三にはさっぱり分からなかったが、どうやらその場の誰にとっても想定外の事のようだ。進行役の男だけでなく会場中の誰もが理解出来ずにどよめき始める。
 当の挙手した男はその喧騒の中ゆったりとした動作で腰に手を回すと立ち上がり、手にしたものを壇上へと向けた。
 ――ダァン――!!
 その音は大衆のどよめきさえ一発で黙らせると、周囲に一筋の白煙をくゆらせた。
 時間が止まったかのような錯覚に、会場にいる誰もが陥ったことだろう。
五三の視界の端で、先程まで人間だったものが血煙(ちけむり)を上げて首から上を消失させた。
 一瞬後、顔がなくなった人間だったものはぐらりと上体を揺らすと、べしゃりという不快音をたてて倒れ込んだ。
 先ほどとは打って変わって静まり返った会場に、回転式拳銃の弾倉が回転する音だけが響き渡った。
 「……✕✕✕」
 何が起こったのか理解できないまま反射的に再び立ち上がった男を五三は見る。視線の先では丁度男が何事かいいながら顔を隠していた仮面を煩わしそうに外すと、自身の足で踏み砕いていた。
 バキン、という仮面の砕けた音を皮切りに、会場は地獄と化した。
 恥や外聞などまるで豚にでも食わせておけという勢いで、我先にと客席に集まっていた金持ち達は出口へと駆け出した。
 阿鼻叫喚の中、たった今惨劇を行った男はそよ風同然にその騒ぎを聞き流し、口にくわえた葉巻(たばこ)に火をつけながら口を開く。
 すると会場の至る所に潜んでいたのだろう、男の台詞が言い終わると、同時に銃で武装した数十人の男達が一斉に壇上に駆け上がってくる。
 
 ――そこから先は、二勢力による敵味方入り乱れた乱戦へともつれ込んだ。
 
 激しく状況が移り変わり、誰が敵か味方かわからない疑心暗鬼に陥(おちい)りながらの戦闘だ。おそらく、正しくこの状況を理解しているのは、先ほど客席でこの乱闘の口火を切った男ただ一人であろう。多くの拳銃によって放出された硝煙(しょうえん)と土煙で、視界はさらに最悪だ。
 飛び交う銃声に、突然開始された銃撃戦に五三は対応出来ずただ立ち尽くすことしか出来ない。これほどまでに急変した事態に放り込まれたら誰だって頭が真っ白になるのは必定だ。
 そして、だからこそ気づくのが遅れてしまった。
 
 荒れ狂う混戦の中で、その一つが五三に向けられていることに。
 
 五三がその事に気づいた時にはもう遅かった。銃を持った男は鬼の形相で何事か怒鳴(どな)り散らすと、引き金にかかった人差し指を躊躇なく引いた。
 吐き出された弾丸は音速で頭蓋(ずがい)をかち割り、一瞬であの世へ行けるだろう――五三は反射的に目を瞑(つむ)りその時を待ったが、その想像が現実になることは無かった。
 恐る恐る目を開けると、そこには男と五三の間に割って入ってきた九七の背中が飛び込んで来たところだった。
 「早く逃げろ!!」
 こちらに振り返ることなく九七は叫ぶ。そこでようやく53は先程まで鎖を握っていた男がいなくなっていることに気づいた。彼らを縛るものは何も無い。
 ――今なら混乱に乗じて逃げることが出来る。
 しかしそれは同時に、目の前の男に飛びつき今も尚必死に抵抗する九七を見捨てなければならないという事だった。
 「でも――」
 「――早く行けって言ってるだろ!!こんな所で死にたいのか!?」
 躊躇(ためら)う五三に九七はこの場にいる大人にも負けない怒気をはらんだ声で怒鳴る。それはこの短い期間で五三が見た、初めての側面だった。
怒鳴られた五三はびくりと体をこわばらせると、九七の言うがままに身を翻(ひるがえ)し、宛もなく駆け出した。
 走り出す直前、ちらりと九七に振り返ると、彼の首に下げていた不細工なネックレスがきらりと光を反射させていた。
********
 その後は、振り返ることなく無我夢中で走った。
 ここに連れてこられるまで散々歩かされ、五三の身体は既に悲鳴をあげていたが、その足を止めることだけはしなかった。
 足元はまるで大雨でも降ったかのような大きな赤い水溜まりや、顔半分が吹き飛んだ死体、千切れた腕や足が散乱しており、その度に何度も足がすくみそうになったが、五三はただただ走り抜ける。
 どれだけ走っていたのか五三本人にもわからなくなってきた時、一際大きな物体に躓き、勢いそのままに地面の転がった。
 五三は上体を起こそうと地面に手をついた。そこでようやく走ってきた地面が硬い混凝土(コンクリート)から柔らかい土に変わっていたことに気づく。
 ――気がつけば、五三はあの地獄のような空間を抜け、外の世界に出てきていたのだ。
 随分とあの建物の中に居たのだろう、空は既に白(しら)じんでいて、夜明けが近いことを示していた。
 もう一度外の世界へ出てこれると思っても見たかった五三は、その美しい、しかしありふれた光景にただただ呆然とすることしか出来なかった。
 そうして放心していると、その光を遮る形で影が五三の前を横切った。
 何事かとぼんやりとする頭を上げると、そこにはあの客席で一番に銃声を響かせた男がそこに立っていた。
 「……ひっ、」
 脳裏に焼き付いてしまった凄惨(せいさん)な記憶を思い出し思わず後ずさってしまったが、それが仇(あだ)となった。今まで五三に気づいてなかった男は僅かな音を聞き逃すことはなく、五三に振り返る。
 男としてはまるで道端に落ちている小石を見た程度の事だろうが、五三は蛇に睨(にら)まれたカエルのように硬直する。
 暫くそんな五三を観察するように見ていたが、やがて興味をなくしたのか、男は踵(きびす)を返し歩き始める。
 ――パシッ
 何かに引っ張られる感覚に、今まさに立ち去ろうとした男は気だるげに振り返る。
 男の肩にかけた外套(がいとう)の端をつまんだ五三本人にも、自分の行動が理解出来ずに混乱する。
 ――どうして、引き止めるような真似をしたのだろうか。
 あのまま男が立ち去っていれば、少なくともこの男に殺される危険性は限りなく零になっただろう。しかし、五三はその危険性を振り切ってまで彼を引き止めることを選択した。
 ――一人には、なりたくなかった。
 引き止めてしまった以上今更引っ込めるわけにも行かず、お互いの間に気まずい沈黙が流れる。
 どうしたものかと五三は最後の力を振り絞り頭を働かせるが、救いの手を差し伸べる形で数人の男達がバタバタと靴底を鳴らして集まってきた。
 先頭に立っていた男を筆頭に、険しい表情をしながら彼らは何やら話し込んでいたが、ふと背後の五三の存在気づいたひとりがこちらを窺(うかが)うと、どういう状況でこのような事態になったのかさっぱり分からないようななんとも言い難い表情で外套の男を問い詰め始めた。
 五三はその剣幕にようやく掴んだままだった外套の端を離した。
 かと言ってどうしようと言うでもなく、その場に立ち尽くし、俯(うつむ)く。
 外套の男は五三を一瞥すると、先程詰め寄ってきた男に一、二言言うと、その他の男達を引き連れ今度こそその場を後にした。
 五三は遠ざかる背中をどうしてか眺め続けていたが、その場に残っていた男に声をかけられ現実に戻ってくる。
 「え〜、先程は見捨てるような真似をしてしまってすみません。潜入調査をしていた以上、あまり不審がられるような行動は出来なかったもので」
 その声音を聞いてようやく、先程建物内部で引き渡された仮面の男と目の前の男が同一人物だということに五三は気づく。
 先程の違和感は、九七以外で唯一言葉が理解できる人物だったからだろう。
 先程の外套を纏った男より些(いささ)か幼い顔つきの男は晴れない表情で謝ると、ずっと地面に座り込んだままだった五三をひょい、と担ぎ上げた。
 「さて、我らが首領(ボス)から、ひとまず貴方が回復するまで介抱しろとの命令(オーダー)を承(うけたまわ)りましたので、暫く貴方の身柄は私達ギュスターヴファミリーが保護いたします。生憎(あいにく)と第三区画の言語は勉強中でして、お聞き苦しいでしょうがご容赦くださいね」
 とても勉強中とは思えないほど流暢(りゅうちょう)な日本語で男は腕の中の五三にこれからの事情を簡潔に説明すると、昇りつつある朝日に向かって歩き始める。
 「私の事はカイと呼んでください。貴方のお名前をお伺いしても宜しいでしょうか?」
 あの地獄のような場所から抜け出せたことで緊張の糸が切れたのだろうか。抗(あらが)い難(がた)い睡魔(すいま)と空腹を感じながら、あの日名乗ることが出来なかった自分の名前を五三は呟いた。
 「つきひと……名前は―蘭城(あららぎ)、月仁(つきひと)――」
********
 ――随分と、懐かしい夢を見た。
 まだ夜も明けきらぬ薄暗闇の中、私はベットから上体を起こす。
 あれは確か、私がまだ十歳になるかならないかの頃だった。
 あの事件以降ギュスターヴが管理する孤児院に預けられた私は、当時の首領(ボス)、エルヴィンの右腕を務めていたカイに養われることになった。
その時に一度だけ、カイに連れられ故郷である第三区画に戻ったことがある。
 薄れつつあった記憶を頼りに実家近くまでたどり着くことが出来たが、そこにあったのは自分の名前が刻まれた小さな墓標(ぼひょう)だった。
 こんな世の中だ。おそらく人攫いにさらわれ行方をくらませた私をついぞ見つけることが出来なかった家族は、せめてもの罪滅ぼしにと墓標を立ててくれたのだろう。
 
 そこに、私の居場所はもう無かった。
 
 行く宛もない私は、カイに頼み込んでギュスターヴファミリーの一員にしてもらい、その任務に従事することにした。そこにしか、私の居場所は無かったからだ。
 私はおもむろにベッドから立ち上がると、自分のデスクへと歩み寄る。
 ……どうして今更こんな昔のことを夢に見たのか、原因を確かめるためだ。
 デスクの上には、数日前壬が落として行った不細工なネックレスが置いてある。
 「……そうか、お前だったんだな……【一〇九七】」
 気分の良くない夢を見たせいか、若干寝汗でベタついた寝巻きの上から鎖骨の下を撫でる。
 そこにはかつて、【一〇五三】の数字が刻まれていた。今では上から無理やり焼き消そうと足掻(あが)いた末に、火傷(やけど)の跡が残っていた。
 あの場で助けられてから九七の姿を見ることは無かった。彼の行方を探し当てることはギュスターヴのネットワークを駆使しても不可能だった。あの乱戦だ、武器すら持たない子供が生き残れるはずもない。
 しかし彼はどうにかして生き延び、そして再び私の前に現れてくれた。
 ――彼にもう一度会わなければならない理由が増えた。
 しかし同時に、私の中で言い難い胸騒ぎが湧き上がる。
 それがどこから来るものなのか、今の私には分からなかった。ただの思い込みだろう、と私は結論を出す。
 ふと窓の外を見ると、バケツをひっくり返したかのような豪雨が【宿り木(ミスリル)】の重なった大地を叩いていた。

© 2017- izumi soya

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