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 夜もまだ明けきらない黎明の中で、男は一人、煙を燻(くゆ)らせ岩礁(がんしょう)に腰かけていた。
 見渡す限りの大海原(おおうなばら)が目の前に横たわっていた。【宿り木(ミスリル)】最下層、現存する最後の大陸、それを取り囲む大海だ。
 潮風特有の湿気の多く含んだ風が頬をなでるのを感じながら、彼はぼんやりと水平線の向こう側を眺めている。
 咥(くわ)えた葉巻(たばこ)の半分が灰になったころ。ふと、何の前触れもなくその視線を背後へと向ける。いや、前触れなくというのは語弊(ごへい)があるだろう。彼は待ち人が来ることを見て知ったうえで、この場で待っていたのだから。
 顔の左半面に大きな古傷を負った青年――イグニスは、背後からエルヴィンが歩いてくるのを察知し、懐から取り出した携帯灰皿に葉巻を押し込め座っていた岩礁から腰を上げた。
 「お疲れさまです」
 「てめえ、わざとあの野郎に気づかれるように事を運びやがったな」
 聞く人によってはその場ですくみ上りそうなほどの怒気をはらんだ声だったが、イグニスは「何のことでしょう」と臆することなく白(しら)を切る。
 この青年は、例え相手がこの世界の神であろうとその態度を変えることはないだろう。相変わらずの飄々(ひょうひょう)とした態度のイグニスを問いただすのは時間の無駄だ、とエルヴィンは短く悪態をつくだけでこの話題を切り上げた。
 「そういう旦那こそ、今回は随分とらしくない事をしていましたね」
 エルヴィンの性格から、今回のような裏方で暗躍(あんやく)する行為はとても性に合っていなかっただろう。それが他人のこととなれば尚更だ。
 「んなこと俺がいちばん知ってるわボケ。こうでもしねぇと踏ん張りがきかなねぇ奴らばかりだろーがったく」
 ツキヒトのタグを盗み出したのも、息子にすら声をかけずにファミリーを飛び出したのも、全ては不器用な彼なりの彼らを思っての行動だった。
 結果として、かなり乱暴だったとはいえ息子は【首領(ボス)】としての自信と覚悟を、ツキヒトは命令ではなく彼自身の意志で選択していく決意を、そのほかの構成員に対しても、選択の自由を与えることができた。
 ――もう彼が背負うものは何もない。
 この先へと進むためには、今まで背負っていたものは全て枷(かせ)となり、同時に弱みになってしまう。それでは困る。
 今のエルヴィンはその身一つ。これで失っても困るものは何もない。……の筈だったのだが。
 「それで、多少なりとも変わったか」
 己の思考をひとまず頭の隅へと追いやると、エルヴィンはあまり見せたことのない真剣なまなざしでイグニスを見据える。言葉少なくとも、彼が何のことも言っているのかイグニスには理解できていた。
 イグニスは古傷の下、白濁(はくだく)した左瞳に埋め込まれた【未来視】を可能にする機構(きこう)を左手で覆(おお)うと、すぐに顔を上げた。
 「ん〜、細かい所はちょこちょこ変わりましたが、結局のところ、変化はないですね」
 彼にしては珍しく、大変困ったといった頼りない表情でエルヴィンの質問に答える。
 対して、エルヴィンは至っていつも通りに「そうか」と気怠(けだる)けに返事をするだけだった。
 この程度で未来が変わるなら、人生苦労はしないというものだ。
 エルヴィンは短くそう言うと、来たばかりだというのにくるりと踵(きびす)を返すと、すたすたともと来た方向へと歩いていく。
 「行きますか」
 短い問いかけに、エルヴィンは振り返ることなく背中越しに手を振るだけだ。
 最後にイグニスはずっと聞きたかった疑問を投げかける。しばらくこの大きな背中を見ることも、そしてこの疑問を解消する機会は無いと知っているからだ。
 口から滑り出た声は、自分でも驚くくらい弱々しいものだった。
 「どうして、ですか」
 その先にあるものは、人ひとりには到底背負いきることの出来ない闇しかないことを知りながら、それでも男は迷うことなく足を踏み出す。
 出会ってからその生き様がブレることはただの一度もない。エルヴィンのその強さの理由を、イグニスは知りたかったのだ。
 ひたむきなイグニスの投げかけにもエルヴィンは決して足を止めることは無かった。しかし辺り一帯に響き渡る波音の中でも、彼の言葉は鮮明に耳に刻まれた。
 
 「――守りてぇものがあるからだ」
 
 何十年も肩にかけ続けた【首領(ボス)】の証は今はない。しかしそんなものはただの飾りとしか思っていない男は、ただ何となく「やっぱないと寒いわ」と緊張感の欠けらも無い独り言をぶつくさと言いながら遠ざかっていく。
 泰然(たいぜん)と歩き去るエルヴィンを、イグニスは今度こそ呼び止めることなく見送った。
 「……這いつくばってでも帰ってきてくれよ、旦那」
 呟かれた言葉は誰に届くこともなく、静かに打ち寄せられる潮騒(しおさい)に飲み込まれて、そして水泡(すいほう)のように消えていった。
 
 
 
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 時同じくして、第五区画第五層ギュスターヴ本邸。その執務室にて。
 「〜〜あ〜終わんねぇ〜まとまらねぇ〜〜」
 ランディは一人山のような報告書と対決していた。
 今回の件は【六大ファミリー】の首脳会議で議論されたものであったため、当然報告の義務がランディには課せられていた。
 結局、ルカとイグニスが向かったグロッタの街で行われていた会合が本命だったわけだが、事の制圧に向かったルカからの報告からすると、奴らも末端の組織の一部だった。
 そんな奴らが何かを知っているはずもなく、折角捕らえた捕虜(ほりょ)からも【Sefirot(セフィロト)】の有益な情報は得られていない。
まんまとトカゲの尻尾を掴まされたという事だ。
 ということで、今回の騒動に決着は着いたものの、【Sefirot(セフィロト)】に関してはほとんど情報を得ることが出来なかった。依然として【六大ファミリー】の警戒は継続されることになるだろう。
 様々な生産性のない情報と裏の取れていない情報。陽炎(かげろう)の様な【Sefirot(セフィロト)】の存在。報告書作りが捗(はかど)らないのも仕方が無いことだ。
 こんな夜明け近くになっても、デスクの前の紙は真っ白いままだった。……深夜のうちにルカが用意してくれた珈琲(コーヒー)もすっかり冷め切ってしまった程だ。
 このままでは埒(らち)が明かないと大きく伸びをして気分転換を試(こころ)みるランディだが、その胸中はお世辞にも晴れやかとは言えない。それはまとまらない報告書だけのせいではないだろう。
 確かに今回の一件はひとまず集結した。多少の被害は出てしまったものの、その分収穫もあったといえばあった。
 しかしランディには、これは単なる大きな事件の前触れのような気がしてならなかった。
 第三層でジンと対峙した時に言われた言葉が、耳から離れない。それはランディにしか聞こえなかった、呪いのような言葉だ。
 そのことを思い出し、難しい顔になるランディだったが、今この場で考えても仕方の無いことだと一旦問題を棚上げする。
 身体を反らしていたランディは、そのまま椅子を半回転させ、後ろに立て付けられた大きな窓から外を眺める。そこからは第五層を一望することが出来、振り返った丁度その時には白(しら)んできた空の向こうから朝日が昇り始めていたところだった。
 今日も一日溜め込んでいた仕事を消化しなければならない。そのことを思い出したランディは頭を悩ませるが、その表情はどこか明るいものだ。
 そうと決まればさっさとこの報告書とケリをつけねばならない。あらためて気持ちをリセットすると、ランディは再び報告書と向き合った。
 
 
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 あの時、彼との僅(わず)かな対話の終わり。一段と激しく吹き荒れた嵐の中で、ジンはランディに向かって確かにこう警告した。
 
 
 
 「――気をつけろ。【世界樹】の根は、すぐそこまで迫っているぞ――」
 
 
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© 2017- izumi soya

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